昨日より少しだけ

コーヒーがおいしくなればいいと思って書いている

価値観が形を失ってから久しく

自分にとって確かな価値観とでも呼ぶものは、いつ失われたのだっけかと思いを馳せます。

僕も幼い頃は例に漏れず善良な子どもだったので、多感な思春期を過ごしました。過剰な自意識で不器用に形作られた僕の価値観は、その後の人間関係を流れる中で角を落とし、輪郭を透かし、馴染んでそのうち見えなくなっていきました。

気付けば、にへらと笑ってコーヒーを飲む自分がいます。

毎夜、頭を唸らせベッドに沈み込んでいた男の子はもういません。形を失った僕の感情はすくっても掴み所が無く、そこに小さく波を立てるだけです。どこまで広がっているのかも、降りれば足がつくのかもわかりません。わからないということは不安です。

例え安っぽく小さなモノであったとしても、確かな形を保っていたなら、堂々として目の前のことに向き合えるのだろうかと考えます。

きっとその後ろ盾がまやかしだとどこかで気付いたからこそ、僕の価値観から確かなモノは失われたのでしょう。結局のところ、ただのないものねだりなのです。