おじさん構文は僕の心にも宿っている
結局その日は、午後になって別のビッグニュースが舞い込んだため、世間ではそれほど話題にはならなかったように思います。
それでも、僕にとっては多少の危機感を抱かせる話題でした。
「おじさん構文」という言葉と共に、そのニュースは話題になっていました。
なんでも、あるラーメン屋から締め出しをくらった人が綴った釈明の文章がいたく気分を害する物だったという、そういう話です。
カッコ書きでセルフツッコミを入れるとか、女性に対する偏見が感じられるとか、そういう前時代的痛々しさのある文章を指して「おじさん構文」と呼ぶようです。
いわゆるネットスラングというやつで、具体的におじさん構文を定義する物は無いんだと思います。
実際、例には挙げましたが「カッコ書きでセルフツッコミ」も「女性に対する偏見」もそれが「おじさん」を感じさせるかというと、微妙な所だと思います。
「カッコ書きでセルフツッコミを入れるのがおじさんっぽい」というよりは、文章内に散りばめられた言葉のニュアンスから垣間見える書き手の姿、そこにイタいおじさんを見て「おじさん構文」という言葉が出てくるのが実際のところなんじゃないかと思うのです。
だから、僕には他人事に思えませんでした。
僕が何の勉強も無しに好き勝手書いているこのブログ、40、50代になった自分が今のまま好き勝手書いたら、それがそのまま「おじさん構文」になっているかもしれないのです。
当たり前ですが、作家に対する編集のような人はいないので、「ここは直さないと気持ち悪いよ」と言ってくれる人もいません。気付かされるのは人目に触れて「これはおじさん構文である」と判断された時です。
僕の価値観はまだ、世の中とそれほど乖離しているとは思いません。
ですが、僕はもう自分の価値観が世の中と必ずしも一致しないであろうことも知っています。
目まぐるしく変化する世の中で、自分の書く文章がある日突然「おじさん構文だ」と言われても、それはまるで不自然なことではありません。そして僕は男性である以上、きっとおじさんになります。
その事実が、僕に引き際を考えさせるのです。