1年間が経つ
気付けば時間が過ぎていきますね。
1年間はとてもあっという間と言えるほど短くはないけれど、それでも懸命になっている内に過ぎていってしまうから不思議です。
確かにここには1年前とは別の自分が立っています。
いつもと同じようにコーヒーを飲み、いつもと同じように日々に向き合い、いつもと違うことを沢山乗り越えて、ここにやってきました。
それでも、別に何も変わらないような気がしています。
以前も今も、変わらない。僕は僕です。
この頃
何をするでもなく朝が来た。
だらだらとyoutubeやらtwitterやら見ているうちに夜が更けていく。大切なことは手付かずのまま。
「テレビは部屋にありません」という人も増えてきたけど、vtuberの長時間配信なんかを見かけると人の本質は変わってないなと思う。僕もたぶん例外ではない。
今日はそもそも休む日なので、大したことはしていなくても問題はない。
何だかやたらと疲れていたし、休んでおくに越したことはないけれど、先週あたりから何もできていないような気がして、どこか、焦ってしまう。
不思議なもので、こんな時はいろんなことが重なる。
予定をこなす内に時間が過ぎる。8月は終わっていった。
結局は1つ1つ、やっていくことでしか先には進めない。
思ってるほどできない
3年くらい前、それこそ世間がコロナになるかどうかくらいの頃から始めた趣味があるのです。
最初はもちろんやろうと思ったから始めたわけで、今日に至るまであれやこれやと道具を買い足してきたりもしているのですが、この頃はなんだか「やらなきゃいけない」と思ってやっているような気がするのです。
なんか、これは本当に好きなんだろうか?
いや、別に好きだからって毎日やることかと言われれば、そんなことは全然ないし、気が向いた時にやればいいんじゃねぇのというのは、本当にもっとも。
ただ買った道具が埃を被るのは悲しいし、やっぱりやり続けていくから楽しいという感覚があると思うのです。僕はそこにいたい。
要は、「自分で思ってるほど没頭できてなくてモヤモヤしている。」という、空回りだかなんだかよくわからない感じになっているのです。
この気持ちを上手いこと帳尻合わせする術はあるのでしょうか。
毎日の中で
今月は様子を伺っているうちに中旬までが過ぎようとしています。
焦るような気分にもなりますが、そもそも今月は大きな予定を入れないつもりでいたのでした。
7月には僕の生活の中で1つ、大きなイベントがあったので、8月はそれを受けてこれからを考える、様子を見る月にしようと決めていたのです。
まあ、別に予定なんて自分で入れない限り入ってこないんですけどね。
それでも、これまであたふたしていたからなのか、何だか落ち着かない気持ちになってきて、何かしらやろうという気持ちになってしまうのが怖いところ。
僕は、このあたふたした慌ただしい生活のリズムに慣れてしまっているようです。
大人の事情
いわゆる「大人の事情」というやつに巻き込まれました。
僕もいい加減いい大人なので、そういうことに出会すのは不思議でもなんでもないのかもしれません。
あるいは、今までだって自分がさして気にしないだけで、そういう出来事を沢山経てきているようにも思えます。
しかし、いざこうして出会ってみるとなんというか、やっぱりあんまり良い気はしませんね。
「大人だろうが子供だろうがダメなものはダメでしょ。」って思うんですけど、実際そうなっちゃってるからどうしようもないという、この理不尽。
まあどうにかするんですけどね。大人ですし。
事情は沢山抱えても「仕方ない」で済ませる大人にはなりたくないよなぁと思うのです。
眠れない夜の過ごし方
この頃は眠れない夜を過ごすことが多いです。
暗く静かな時間を過ごすことは、深い水底にいるような感じがして悪い気はしません。外の空気の匂いを嗅いだり、カエルの鳴き声を聞いたりして過ごします。
たまにはこうして記事も書きます。
ぼんやりしながら考えるのは、この時間の使い方です。
毎日「もっといろいろやりたいなぁ」と思いながら時間が過ぎることを憂うのに、夜中になればこうして持て余すような時間の使い方をしています。
どうせなら、と思うのですが、夜中にやれることはそんなに多くはありません。
色々考えたりしても、結局無理に何かをしない方がいいように思えてしまいます。
そういうものなのでしょうか。
でもまあ、それはそれでいい気もします。
あんまりは知らないということ
「ファクトチェック」という言葉があります。
明確な意味は定かでないですが、「SNSなどで間違った情報を広めてしまわないよう、情報の真偽を確認しましょう。」というような呼びかけで使われる言葉です。
情報が氾濫する世の中ですので、どこまで真に受けるかは別として、本当かどうか知っておくだけでも意味があるとは思うのです。
そんなわけで、この頃は会話の中で「あれ、これ本当だったか?」と思ったことは、立ち止まって調べてみたりもするのですが、まあ誤情報が多いこと。
僕はずいぶんと曖昧な記憶を元に喋っていたのだなと気付かされます。
気を付けなければと思う反面、まあでも適当なことを言う大人って昔はもっといたよなぁとも思うのです。あの人たちはこうして出来上がっていたのでしょうか。
ちゃんと知ることに必要性を感じるのは、今の時代ならではなのかなと思いました。