昨日より少しだけ

コーヒーがおいしくなればいいと思って書いている

チャットで雑談できない

いくつになっても、文字でのコミュニケーションは上手くなれないです。

LINEのチャットだけで何を会話したらいいのかわからない。顔文字を上手に使いこなせない。会話を打ち切るタイミングを読めない。

ついつい、画面の向こう側にいる人の様子を伺おうとしています。

チャットよりも通話の方が良いです。通話よりも実際に会って話せる方が良いです。その方が情報量が多いから。

日々暮らしていて、自分はいかに「実際に伝えられている言葉以外の情報」に頼ってコミュニケーションを取っているかを痛感します。

ある意味、僕はコミュニケーションが下手なのではないかとさえ、思うのです。

猫に噛まれて

ウチで飼っている猫に両手を噛まれました。

昨日は月が綺麗に出ていたので、窓を開けて、寝転がってぼんやり月を見ていました。そしたら僕の脇を通って、開いている窓から猫がベランダに出てしまいました。

少しの間見ていたのですが、やっぱり逃げたらいけないと思って「シャーッ」って言ってるのを強引に抱きかかえたらガブッとされました。

噛まれた時はそんなに痛く感じませんでしたが、血が出ました。

悪いと思ったので「ごめんな」と声をかけました。

それからは素っ気ないままです。

 

何か、もうちょっと上手いやりようとかあったのかなぁと思います。

壊れた物として捨てる何か

7年くらい使っていたコーヒードリッパーが壊れてしまいました。

一人暮らしを始めた際に、父にニトリで買ってもらった物です。別に、思い出の品というほどの物ではありませんでした。

僕は毎日のようにコーヒーを淹れます。壊れたのも、使い終わったドリッパーを洗おうとした時で、ナガシの中で母の手から滑り落ちて割れました。母は「弁償するから」なんて大げさなことを言ってました。僕は寿命だったと思います。

思い入れも無く、愛着もそれほど無く使っていた物です。

壊れてしまったというショックも僕にはありませんでした。ただ、7年間毎日使い続けてきた形が失われてしまったというのが何だか妙に感慨深くて、僕は割れてしまったドリッパーをまじまじと見たのでした。

 

長い間、お世話になりました。

どこにでも売っている形。だけど割れたドリッパーとして捨てるのは、何か違うモノのような気がしました。

今年も本を読んでみる

風がずいぶん涼しくなりましたね。

今年も秋がやってきたという感じでしょうか。テーブルや机の上に本を積み上げてはそれを片付けるという戯れに年中興じている僕には、少し燃える季節がやってきました。

そうです、「読書の秋」です。

常々「本を読みたい」などと言いながら結局そのために時間を作り出すことはせず。「これをきっかけに読書の時間を持とう」と立ち寄った本屋で買っただけのままほこりを被った本も数知れず。

そんな僕が大手を振って「沢山本を読みます!」と半分ホラのようなことを言っても許される唯一の季節がやってきました。

 

さてさて、今年は何冊読めるでしょうか。

しれっと過ぎていく9月

なぁんか、もう9月が下旬になろうとしてるんですね。

毎年この季節はあってないようなというか、気付いたら過ぎ去っている印象があります。特に近年は残暑が厳しく、服屋さんでは秋一色といった雰囲気でも外はまだまだ暑いから全然半袖、みたいな感じで過ごすようなことが大体です。そんな夏の延長みたいなノリでいると10月になって、何かもう年末が遠くの方に見えてきてる。

あれ、9月は?って。

とはいえ、今年は中旬のうちに気付くことができたのでラッキーかもしれません。

残された9月をなぁなぁで過ごさないよう、気を付けたいところですね。

丁寧に歩いていく

「結局、目の前にある今やることは変わらないんだ」とか、

そんなことを考えながらこの頃は暮らしています。

手帳管理とか、エクセルなんかのデータ管理とか、使えるツールが増えれば増えるほど、どんどん自分の日常が俯瞰で見れるようになっていって、そうするとどんどん先のこととか遠くのことが目に入るようになっていきました。

「計画性を持つ」とか「先見性を持つ」とか、一般的には大切なこととされているので、どんどんどんどん次のことや周りのことに気を回していくようになるんですけど、気付いたら目の前のことが手に付かないくらいになってるんですよね。

これは危うい。

どれだけ先を見越しても、どんなに遠くを見据えても、そこへ行くために今日やることはいつも目の前にあって、歩き出さずに辿り着くことはありません。

 

最終的には、目の前にあることをどれだけ丁寧にこなせるかだと思うのです。

熱量に限りがあることを知った

何にでも限りがあるものなのだなと思いました。

こと「好き」という感情においては、あればあるほど良いと思っていたのです。

「好きだと思えるモノをいくつ見つけることができるか。」

それが人生の充実度を左右すると思う節もありました。自分の日々に「好きなモノ」が増えた分だけ幸せになっていくのだと。

しかしこの頃は、全てのモノに情熱を注ぎきれない自分がいます。目の前の好きなことに熱意を注ぐ一方で、時間的に十分に余裕があっても、別の好きなことに意欲を持てない自分がいることに気付くのです。

「感情が枯渇する」というのは、僕のケースにおいては大げさなのかなとも思いますが、ただの表現ではなく実際にありうることなのだろうなぁと感じました。