昨日より少しだけ

コーヒーがおいしくなればいいと思って書いている

与えられたモノを素直に受け取っていく

そしたら、もう少し世界が優しくなるんじゃないかと思いました。

 

過去の自分は基本的には「欲しいモノ以外は持たない」という排他的な暮らしをしたりしたのですが、そこにわざわざ拒む理由もないのかなと最近は思います。

 

「今あるモノで満足する」とか、「自分の理想や目標を諦める」とか、そういうことじゃなくて、ただ素直に受け取っていけたら良いのかなと思うんです。

欲しいモノや目指す場所はそのままで良くて、でもそれを理由にそれとは違う形のモノに拒絶的になってしまう必要は無いんじゃないでしょうか。

異なる形も受け入れていく。そうすることで、視界が開けていくのだと思います。

 

 

とか、いつぞやの僕は思っていたそうです。

数ある下書きの中から比較的形になっているモノに少し手直しをしました。

お納めください。

 

今週のお題「下書き供養」

ヨギボーを買った

ヨギボーを買いました。

母が片付けたロフトのスペースを見て思っていたのです。「ここにヨギボーがあったらいいのでは?」と。

それから1年が過ぎ、ついに僕はヨギボーを買うことにしました。

無印良品でもニトリでもなく、ヨギボー一択でした。なぜなら大人が1人倒れ込めるくらいサイズの大きなクッションはヨギボーでしか出ていなかったからです。もし他で出ていたならそれは僕のリサーチ不足ということになります。

とはいえ、後から中のビーズを買い足せる点でもヨギボーが魅力的でした。

 

結局「ミディ」という中くらいのサイズを買いました。

大人が1人倒れ込むなら「マックス」というサイズなのですが、何だか大きすぎて我が家に置くと品が無いような気がしたのです。我が家がもっと広い家だったなら、きっとしっくり収まったのではないかと思います。

「マックス」ほどではないですが、「ミディ」でも十分倒れ込めます。

175cm弱の僕が乗っかって足が出るくらいです。このくらいが丁度いい感じがしました。

 

使ってみて便利だったのは、ソファとして使う方法です。

クッションを縦において、椅子に腰掛けるようにお尻から座るのです。

すると、クッションは身体を包むように丸く潰れて1人掛けのソファのような形になります。これが良い。

一般的なビーズクッションと違って縦に長いので、背もたれのような部分が残り、ゲームや読書に丁度いい。もちろん普通に使っても快適です。

 

けっこう良い値段だったのですが、思っていたより良い買い物だったかなと思います。

マイボトルで小さく節約

僕はマイボトルをコマメに持ち歩いています。

持ち歩くマイボトルは3年くらい前に買った象印のやつなんですが、保温性も悪くなく温冷両用、便利に使っています。

買った理由は節約のためでした。

コンビニで缶コーヒーを買うより自分の家でドリップしたコーヒーを持ち歩いた方が、おいしいし安く済むことに気付いたのです。

昨今では、外出の頻度はぐっと減りましたが、何かの折にコンビニに寄って余計な出費を重ねてしまう・・・

そんなちょっとした悩みを鮮やかに解決してくれたのがマイボトルなのでした。

 

象印のボトルはフタのゴムパッキンまで分解して洗えるのでオススメです)

 

お題「#新生活が捗る逸品」

この頃の感じ

久々に書いていこうと思います、特に意味もないのですが。

この頃は相変わらず書くことに意欲的ではなく、「書きたいことが見つかったら」みたいなことを考えながら月日だけが過ぎていってしまいます。

「時間が無いから本が読めないのではなく、本を読まないから時間が無いのだ。」

という言葉がありました。

もうどこで聞いたかも覚えていませんが、書くことにおいても同じなのかもしれません。

「今、やらなければその時はもう来ないのだなぁ。」と感じます。

実際にやるかどうかの決断は別として、その事実だけはどんな状況でもきっと変わらず、だから僕はこの1年でいろんなモノを見送ってしまったんだなと思います。

才能という種子

久々にパソコンを立ち上げました。

半月以上も書いていませんでした。このブログで書き始めてから、記事を書こうとも思わないという状態がしばしばあります。

そうは言っても、何度か更新を繰り返す内に自然と書きたい内容が浮かぶようにもなったりするものです。

以前であればそうだったのですが、このブログではなるべく頻繁に更新しようといった目標は掲げていません。なので冷めた気持ちはいつまでも冷めっぱなし。一度離れてしまうとそのまま遠くへ行ってしまって帰ってきません。

自分の文章能力に才能があるとは思わないのですが、人の才能というのはこうして失われていくのだろうなと思うのです。

開花するまで磨きあげるのも、育てあげるのも、「やろう」と思う人の意思なのだと思います。

未来が大きく歪んだ日々

お題「#この1年の変化

この1年で変わったことを挙げていけば、キリがありません。

気付いた頃には1年が経っていて、その間に世間の空気が根底からひっくり返ったような印象があります。

もはや、それほど違和感も感じないほどですが、世界は一変しました。

僕自身の日常においては、一昨年の頃から1つの大きな転換期を迎えていました。

パンデミックが起きる前から、既に自分の生活が大きく変わろうとしていたので、何というか「生活の変化に対する抵抗」みたいなものには周りほど苦しまなかった気がします。

一方で、当初の計画がほとんど総崩れになったので、その後の行動は大きく変わりました。

今は何となく落ち着いてますが、それでも一昨年の僕が想像していたような暮らしとは全然違うモノとなりました。これで良かったのかはわかりません。

今回のパンデミックを受けて、僕は自分の人生観から考え直すことになりました。

1番変わったのは、これから自分が踏み出す未来なのだと思います。

こんな日にも実りがある

昨日のうちに計画を立てたはずなのに、想定外のことが起きる。

予定通りに進まない。

何だかちょっと険悪になる。

そんな日でも、振り返ってみれば気付くことがあります。心に余裕の無いような1日でも、冷静になってみると、実にいろんなことが自分を知るきっかけになっていたりします。

きっとこれまでの日々の中にも、気付かないだけでいろんな実りがあったのだろうなと思います。

どんなことも、受け手の捉え方が重要なのだなと感じます。